『眼目精要』と『眼科医療手引草』との関係については昭和5年(1930)に小川剣三郎博士が中外医事新報(No.1166 P.571) に詳細な研究発表をされているので、
ここには『眼目精要』と『眼科医療手引草』の出版書誌事項の主な相違点を挙げる。
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(1) |
外題箋"眼目精要"の代りに"眼科医療手引草"とした。 |
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(2) |
両者の巻尾に附された後書きの文面で、"眼目精要"の代りに"眼目之書"とし"3巻の代りに1巻"とした。 |
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(3) |
『眼目精要、 日』の巻頭にある"眼目精要 日"が『眼科医療手引草』の同処から削除されている。 |
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(4) |
『眼目精要、 月』の巻頭にある"眼目精要月、藤井○(己の下が口)求子見隆
纂輯 長岡恭齋丹堂校正" が『眼科医療手引草』の同処から削除されている。 |
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(5) |
『眼目精要、 星』の本文第1頁の"藤井○(己の下が口)求子見隆纂韓
長岡恭齋丹堂技正" の文字が『眼科医療手引草』同頁に当るところより削除されている。 |
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(6) |
『眼目精要』の目録第1頁には"眼目精要目録
月"とあるが『眼科医療手引草』の同処に当る処には"眼目要目録 月"が削除されて、その代りに"目の見やうの相博"となっている。 |
以上は享保11年、めと木屋勘兵衛版の『医療羅合』眼目精要 日月星、『医療羅合』眼目、 日月星 の2種と書林吉文字屋市兵衛蔵版(刊記不詳)の『眼科医療手引草』との比較である。
『眼科医療手引草』には流布本として、 吉文字屋市兵衛版 天明4年(1784) 改版 (同版で刊記のないもの2種ある)、河内屋嘉七版(刊記不詳)、藤井政武
(慎齋) 編 長岡恭齋 校 文化14年 (1817) 版 (3巻1冊)、 藤井見隆*編 文政6年 (1823) 版
(上中下) 等々がある。
このように『眼目精要』は、総合治療全書ともいえる『医療羅合』とともに藤井見隆纂輯、 長岡恭齋校正により、享保11年に刊行された眼科専門書である。その後、その内容を変えずに、一部文字の入替を行って出版されたものが『眼科医療手引草』である。わが国の眼科専門書刊行の第1書といわれる『眼目明鑑』に次いで刊行された眼科専門書である。また本書の刊行は、秘伝書の書写本から刊本化を促し、従来の眼科諸流派の秘方主義を打破する糸口となった。
参考文献
1) |
小川剣三郎 |
眼科医療手引草は眼目精要の改題せるものなり。中外医事新報No.1166、p.571.日本医史学会、
東京、1930. |
2) |
小川剣三郎 |
稿本日本眼科小史、90、吐鳳堂、東京、1904. |
3) |
日本学士院 |
明治前日本医学史4、日本眼科史、267-268、 日本学術振興会、 東京、1964. |
4) |
福島義― ・山賀 勇 |
日本眼科全書、 1、 82、86-88、金原出版、 東京、1954. |
5) |
藤井見隆 ・長岡恭斎(校正) |
医療羅合. めと木屋勘兵衛開版、 事保11(1726). |
6) |
藤井見隆 ・長岡恭齋(校正) |
眼科医療手引草. 江戸刊 |
7) |
富士川游 |
日本医学史、318、 日新書院、東京、1943.: |
8)
|
富士川游 ・小川鼎三(校注) |
日本医学史綱要(1)、145、平几社、東京、1974. |
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藤井見隆〔藤元玄元〕: 称 見隆、 号 慎斎、 ○(己の下が口)求子、政武、
京都人、(〜 宝暦9 年2 月12日、71歳歿) 。著書、 医療羅合、 幼科発揮、 眼目精要、医療羅合小児、
難病方彙、 秘苑要術、 智慧海( 新続拾玉増補共) 。 |
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