2016年春の展示会は江戸時代の本草学者たちの書物をご紹介いたします。

研医会図書館所蔵の本で江戸時代の植物研究・動物研究・薬物研究の本をご覧ください。。 

2016年4月19日~23日 於: 研医会図書館(銀座)

このイベントは終了しました。ご来館ありがとうございました。

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 展示会 「江戸の本草家と出会う」   

研医会図書館では文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っておりますが、
今年は江戸の本草家たちの本を展示いたします。 

日程:

4月19日(火)~4月23日(土)   この週は木曜日も開館します。

 
開催時間:

9:00~16:00

開催場所:
中央区銀座 5-3-8 財団法人研医会図書館
交通:
東京メトロ銀座駅 徒歩5分 ソニー通り
対象:
小学生以上
入場料:
無料   (診療所受付よりお入りください)
主催:
財団法人 研医会
問い合わせ先:
研医会図書館  e-mail: ken-i-kai@nifty.com

 

 

 

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著者・編者
書名
著者の生年-没年
1
貝原益軒 花譜 菜譜 
1.大和本草(1709宝永7) 
1630-1714
2
岡本一抱 2.広益本草(和語本草綱目)(1698元禄11)  1654-1716
3
稲生若水 3.炮炙全書ほうしゃぜんしょ(1689元禄2) 4.本草図翼(1714正徳4) 庶物類簒 5.詩経小識(1812文化9) 1655-1715
4
松岡恕庵 6. 用薬須知(1712正徳2自序 1726享保11刊)  7.袖珍本草雋(1756宝暦6)  
8.食療正要(1769明和6)  9.本草綱目記聞(1816文化13)    救荒本草
1688-1746
5
丹羽正伯 10.普及類方(1729享保14) 庶物類簒 1691-1756
6
松平君山 11.本草正譌ほんぞうせいか(1776安永5) 1697-1783
7
田村藍水 12.物類品隲ぶつるいひんしつ(鑑定)(1763宝暦13) 13.人參譜(1743寛保3) 1718-1776
8
平賀源内 14.物類品隲(編)(1763宝暦13) 12.と同じ 1728-1780
9
小野蘭山 15.花彙(1803享和3)初版は1765   16.昆蟲草木略(1785天明5)
17.本草綱目啓蒙 3版(1844天保15)初版は1803再版は1811  4版は1847
18.救荒本草記聞(1811文化8)  19.薬名考(1823文政6)  20.大和本草記聞
1729-1810
10
木村兼葭堂 21.兼葭堂遺物(奇貝図譜・禽譜ほか)(1775安永4)昭和の複製 22.兼葭堂雑録(1859安政6) 1736-1802
11
山本亡羊 23.救荒本草記聞 1778-1859
12
水谷豊文 24.物品識名(1825文政8) 1779-1833
13
飯沼慾斎 25.草木図説(1856安政3) 1782-1865
14
岩崎灌園 26.本草図譜(1828文政11)   27.草木育種(1818文化15)
28.本草図譜(1916-1921大正5-10)
1786-1842
15
宇田川榕菴 29.植学啓原(1834天保5) 菩多尼訶経 30.舎密開宗せいみかいそう(稿本か。出版は1837天保8 ) 1798-1846
 

 

  参考展示書籍      
1 本草綱目補物品目録 後藤光生 梨春:編輯 1752  宝暦2年 跋  
2 阿蘭陀本草図巻 (彩色) 1816  文化13年   
3 草木鑑 (植物標本) 1831 天保2年 写  
4 設色本草綱目図 (彩色) 延壽院 橘玄淵 識  
5 蘭畝俶載 (サフランの図、ポンプの図ほかあり) 宇田川槐園 著  

 

  1.貝原益軒(1630-1714)      
     著書・編著: 花譜 菜譜  1.大和本草(1709宝永7)    
   現在の福岡である筑前に生まれる。名は篤信、通称は久兵衛、字は子誠、号を柔斎、損軒、益軒。18歳で福岡藩に仕え始めるが、2代藩主・黒田忠之の怒りにふれ、7年ほどの浪人生活を送った。3代藩主に許され、藩医として出仕し、翌年からは京都に留学し7年間、本草学・朱子学の勉学に励んだ。『大和本草』の自序に「不佞(ふねい)幼より多病にて本草を読むを好み、物理の学に志あり」と書かれているが、浪人の7年、そして許されて後の京都留学の7年間に、大変な研鑽を積んだものと思われる。『大和本草』に収載されたものは1362種あり、『本草綱目』から取られたもの772種、漢名のあるものが203種、日本固有の和品が358種、外品といわれる海外産品が29種で、ここには植物に限らず、また必ずしも薬の用にはならない小草も採られている。さらに、歌にあるとか詩にあるというものも広く収載しており、日本ならではの博物記となっている。益軒は江戸に12度、京都に24度、長崎にも5度、その他諸州を旅行しており、単に本で集めただけの知識をまとめたのではなく、実際に見たものをこの本草書に集めているという。晩年書いた『養生訓』が有名だが、他に『和俗童子訓』『花譜・菜譜』『筑前国続風土記』等60の著作がある。            

 

  2.岡本一抱(1654-1716)      
     著書・編著: 2.広益本草(和語本草綱目)(1698元禄11)   
 

 父は福井藩士・杉森信義、母は医師の家系で岡本為竹法眼の娘、次兄は浄瑠璃作家の近松門左衛門。本人は三男。18歳から32歳頃まで、後世派の味岡三伯の門にいたが、破門され、その後養子先の平井姓から岡本へと名前を変え、法橋となる。著作は非常に多く、『医学入門』や『医方大成論』、『医学正伝』『十四経発揮』等の中国医書の解説書ほか、120冊以上を書いている。『広益本草大成』巻1の冒頭にある「本草弁」では、蝉蛻は風熱湿熱を療し、蝉躰は胞衣を下す違いがあり、そうしたことを理解しなければ数万言の本草書を暗記していてもだめだ、と言い、また「薬性弁」を読むと、五代の医家李珣や金代の張元素の言葉を引きながらも、本草書には主なる効能と枝葉の効能とが書かれているが、医者は主なる所をとり、枝葉に拘ってはいけないと言う。経絡や経穴についての著作も多く、現在でも鍼灸の分野で岡本一抱の研究をする人は多いようである。

 

 

  3.稲生若水(1655-1715)      
     著書・編著: 3.炮炙全書ほうしゃぜんしょ(1689元禄2) 4.本草図翼(1714正徳4) 庶物類簒 5.詩経小識(1812文化9)  
 

 江戸生まれ。名を宣義、字を彰信。通称、正助。若水は号。別号に白雲道人。父は淀藩御殿医。医学は父から、本草学を福山徳潤(大阪)に、儒学を伊藤仁斎(京都)に学んだという。元禄6年、若水の学識の高さは評判となり、金沢藩に儒者として仕えることになる。『本草綱目』を補う博物書『庶物類纂』の編纂を命じられ、京都にて研究を進め、隔年には金沢に出仕するという生活を送った。1697年よりこの執筆を始め362巻を書き上げたところで病を得て死去。その後、若水の子である新助、丹羽正伯らが638巻を書き、合計1000巻の書物として完成させて、時の将軍8代吉宗に献上された。彼の門からは丹羽正伯のほか、松岡恕庵、野呂元丈が出た。展示の『炮炙全書』は薬物の選品を論じた本。編著書は、『詩経小識』(1709)、『本草図翼』(1714)、『庶物類纂』(1738刊)。

 

 

  4.松岡恕庵(1688-1746)      
     著書・編著:   6. 用薬須知(1712正徳2自序 1726享保11刊)  7.袖珍本草雋(1756宝暦6)  
8.食療正要(1769明和6)  9.本草綱目記聞(1816文化13)    救荒本草
 
 

 京都出身。名を玄達、字を成章、通称を恕庵、恰顔斉、苟完居、填鈴翁と号す。経学を山崎闇齋と伊藤仁斎に学んだ。『詩経』に出てくる動植物の名に興味を持ち、稲生若水の門に入り本草学を修めた。享保6年(1721)幕命で国産薬種の調査やこの取引に関する仕事を引き受けた。生前には『用薬須知』を著し、また中国の書籍『救荒本草』を校刻した。死後、遺稿をまとめ、刊行されたものに『食療正要』やサツマイモに関する日中の諸説を引用した『蕃藷録』、また『用薬須知後編』『用薬須知続編』も松岡恕庵の名で出されている。本草の研究をしながらも、松岡恕庵は人々の暮らしに寄り添う面を持っているように思われる。江戸時代は1732年の享保の大飢饉が有名であるが、年代を考えると『救荒本草』が和刻されたのはそれ以前であり、江戸のこの時期、歴史に残るような飢饉ではなくても庶民には常に食べ物の心配があったのだろうか。幕府の御用で薬のこと、食物のことに詳しい知識を持っていた恕庵はそのような視点を持っていたのではないかと思われる。

 

 

  5.丹羽正伯(1691-1756)      
     著書・編著:  10.普及類方(1729享保14) 庶物類簒  
 

 伊勢松坂の医師の家に生まれる。正伯は通称。字を哲夫、号を弥水斎。後、貞機と名乗る。医家は継がず、京都に出て稲生若水の弟子となる。享保5年29歳の頃江戸に行き幕命によって採薬使となり、箱根、富士山、日光を調査した。当時将軍吉宗は『東医宝鑑』に収録されている薬材の同定作業を命じ、林良喜が対馬藩の朝鮮倭館を使い、薬材調査をしてその任にあたっていたが、享保6年に急死。その後を丹羽正伯が引き継ぎ、林良喜の遺した「湯液篇」の和名確定作業を進め、享保11年(1726年)に『東医宝鑑湯液類和名』を完成させた。前後するが、享保7年には下総に5万坪の土地を下され、薬園経営を任された。展示の『普救類方』も享保12年に出している。享保17年(1732年)から宝暦元年(1751年)まで、丹羽正伯自身が倭館調査の指揮も行っている。さらに享保19年からは、師の稲生若水の未完の書『庶物類纂』を完成させるべく、和名の調査、同定作業のために諸国に産物帳の提出を願い、この膨大な資料をもとに編纂。『庶物類纂』は加賀藩に納められ、さらに将軍吉宗に献呈された。吉宗は延享2年(1745)さらなる増補を命じ、現在は26属1054巻の書物として遺っている。産物帳の提出は幕府の後援もあったとされるが、今はそれらの資料が行方不明となっている。1985年、各地の産物帳を使い『諸国産物帳資料集成』が出版されている。

 

 

  6.松平君山(1697-1783)      
     著書・編著:  11.本草正譌ほんぞうせいか(1776安永5)  
 

 尾張藩家臣千村家に生まれ松平家の養子となる。名を秀雲。字を士竜。通称、弥之助、太郎左衛門。別号に竜吟子、富春山人、吏隠亭・群芳洞・盍簪窩主人など。尾張藩書物奉行を38年の長きに渡って勤める。10代の頃より漢詩文で才能をみせていた。藩命で尾張藩士の系譜を記した『士林泝洄(そかい)』、官撰地誌『張州府志』を編集。注疏『孝経直解』、本草詩文『三世唱和』など62種が伝えられている。また、当地における朝鮮通信使の応接にも活躍する。本草の分野では『本草綱目』を研究した成果として『本草正譌』を著し、尾張における本草学の基礎を造ることになった。天明3年、87歳で死去。その蔵書は天保年間に藩に献上されて後世に伝えられたという。

 

 

  7.田村藍水(1718-1776)    
     著書・編著:   12.物類品隲ぶつるいひんしつ(鑑定)(1763宝暦13) 13.人參譜(1743寛保3)
 

 田村藍水(1718~1776)は、またの名を 坂上登(さかのうえのぼり)、元雄(げんゆう)、玄台ともいう。元文2年 (1737) 吉宗から「朝鮮人参」を与えられて試作し、種を採ることに成功(藍水19歳)。その後、結実した種子を全国に広めたという。寛延元年 (1748)には、その成果をまとめた『人参耕作記』序刊 1冊を出している(藍水30歳)。種子が採れた後もさらに実用への研究を続けていたのであろう、さらに後の明和4年(1767)『参製秘録』という本も撰していて、朝鮮人参の加工技術を詳細に述べている。江戸における博物誌の流れは、この藍水に始まるとも言われる人で、弟子の平賀源内とともに、日本初の薬品会を宝暦7年 (1757) に江戸湯島で開催した(藍水39歳)。 町医であったが、宝暦13年(1763)からは幕府に仕えたという。大坂の木村蒹葭堂(1736―1802)とも交流があり(藍水より18歳年下)、本草学・博物学は江戸、長崎、大坂、名古屋をはじめとして日本全国へ広がり、薬品会もまた各地で開催されるようになった。長男は善之 (よしゆき) (西湖) 、次男は栗本丹洲、ともに幕医で博物家としても活躍している。善之は、薬品会の出品物に対して書かれた物産解説書『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』の校正に関わるなどしている。

 

     

 

  8.平賀源内(1728-1780)      
     著書・編著:   14.物類品隲(編)(1763宝暦13) 12.と同じ  
 

  『物類品隲』は田村藍水と平賀源内が行った薬品会の解説書。扉には「鳩渓平賀先生 著」とあり、巻頭の序文は後藤光生(梨春)と田村元雄(藍水)が書き、凡例は「讃岐平賀國倫士彛識」と書かれ、源内がしたためたと分かる。平賀源内は江戸の戯作者、あるいはエレキテルの実験で有名な人物であるが、もとは讃岐の人で、14歳の時、高松藩医三好某について本草学を修めたという。その後、この地方にあって俳諧の集まりの中で名前を挙げるなどしたが、十代の時に夢見た本草家としての成功が大きな目標となったようで、これを目指してまずは大阪に修行に出、戸田旭山(1696-1769)の弟子となり、続いて、江戸に出た。江戸では田村藍水の弟子となり、この『物類品隲』凡例には藍水の行っていた湯島での薬物会を引き継いで神田の会を催した、とある。福田安典氏は著書『平賀源内の研究 大阪編』の中で「すでに兼葭堂や旭山らが作り上げていた上方の本草学のグループに、後から源内が割り込んできて、いつの間にやらそのグループの鼻っ面を引き回そうとし始めた」のが真相ではないか、と書いている。

 

 

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  9.小野蘭山 (1729-1810)  
     著書・編著:  15.花彙(1803享和3)初版は1765   16.昆蟲草木略(1785天明5)
17.本草綱目啓蒙 3版(1844天保15)初版は1803再版は1811  4版は1847
18.救荒本草記聞(1811文化8)  19.薬名考(1823文政6)  20.大和本草記聞 
 

  京都出身。名を識博(もとひろ)、通称を喜内、字を以文。蘭山は号で、他に朽匏子(きゅうほうし)。松岡恕庵に本草学を学ぶ。父の師でもあった恕庵はほどなく亡くなり、以後蘭山は独学をしたと言われる。それまでは中国から移入された本草学をそのまま受取るばかりであった学問を、日本の風土・植生・産物と突き合わせて実際的な学問へと進めていった。25歳で京都丸太町に衆芳軒という私塾を開き、杉田玄白、木村蒹葭堂、飯沼慾斎、谷文晁、水谷豊文、三谷公器、狩谷棭斎ら多くの門人を育てた。70歳をすぎた晩年、幕府より江戸に出て医学館において講義をすることや薬園の管理等を命じられ、これに従った。高齢になってからも精力的に採薬の旅に出かけ、常野、甲駿豆相、紀州、駿州勢州志州、上州妙義山並武州三峯山という採薬記を残した。展示の『花彙』は島田充房との共著で、園芸の盛んであった江戸で好評を博したものであったろうと思われる。長い本草研究の成果をまとめた『本草綱目啓蒙』は孫の職孝や門人が蘭山の講義録をまとめたもので、方言についても記載され、語学研究の面からも大切な資料となっている。

 

 

  10.木村兼葭堂(1736-1802)      
     著書・編著:   21.兼葭堂遺物(奇貝図譜・禽譜ほか)(1775安永4)昭和の複製 22.兼葭堂雑録(1859安政6)  
 

  大阪の造酒屋に生まれ、幼名を太吉郎、名は孔恭、字は世粛、通称坪井屋吉右衛門、別号に遜斎・巽斎。親戚に薬舗の者がおり、小さい時から物産学に興味をもったという。絵画についても12歳より南蘋派の僧鶴亭についた。同じ頃、父と共に本草家の津島桂庵に面会し、16歳からは正式にその門に入った。師は京におり、普段は書簡にて連絡し、時折来阪する際に直接の指導を受けるといった形であった。19歳の時この師を失って以後は、同門の戸田旭山、田村藍水らと書簡のやりとりで研究を進める。25歳の頃から家号を兼葭堂とした。その最初の事業として相国寺の僧・大典の詩集『昨非集』を刊行した。池大雅とも交流があり、20代の若さですでにサロンの主として活躍を始めた。世粛は国内外から書籍、書画、標本を集め、これを見学に全国から人が集まったという。黄檗宗の僧侶である趙陶斎は、世粛に「兼葭堂記」の執筆を依頼されてこれを発表し(1769)、兼葭堂の名を広めた。名が広まるとさらに珍しい物品や書籍や情報が集まるという状態であったらしい。長女や母を失った後か、世粛は妻妾を伴って長崎に行き、海外の物産、書籍の購入や茶道絵画の勉強など見聞を広め、吉雄耕牛を介して平賀源内と知遇を得ている。安永8年からの「兼葭堂日記」には小野蘭山、加藤謙斎、大槻玄沢、本居宣長、司馬江漢との交流もみえる。

 

 

 

 

11.山本亡羊(1778-1859)  

   
     著書・編著:    23.救荒本草記聞  
    山本亡羊、名を世孺、字を仲直、通称永吉。亡羊は号。儒医である父からその教えを受け、本草学を小野蘭山に学んだ。医師として開業しつつ、門人たちに儒学、医学、本草学を教授。京都でたびたび物品会を催し、医学・博物学・名物学・本草学の研究者や好事家たちと交流した。中国書籍を用いて5千を超える動植鉱物について解説した『格致類編』125巻と追加2巻を嘉永2年(1849)に完成させたが、刊行はされずに終わった。一方『百品考』3編6冊は天保9年(1838)に第1編が、弘化4年(1847)に第2編が、嘉永6年(1853)には第3編が発行された。88の動植物について博物学的な解説がなされている。『百品考』の記述にはオランダ語も記されているが、これは所持していたドドネウスの『草木誌』や『ショメール百科事典』を利用して調べたのではないかと言われている。亡羊の父は西本願寺の儒医であり、18世・文如上人に学問所を与えられ、これを自邸に移して読書室とした。このような恵まれた環境であったため、亡羊は屋敷内に講堂をもち、薬草園をもっており、物産会も自邸で開いたという。ドドネウスなどの西洋書も当時は大名などが持つほどの高額であったらしいが、そうしたものも蔵する充実した読書室であったのだろう。肖像画をみると笑顔の人物で、鷹揚な性格の持ち主ではなかったかと思われる。  

 

 

  12.水谷豊文(1779-1833)      
     著書・編著:   24.物品識名(1825文政8)  
 

 本草学者。尾張本草学の最高権威者。最初、松平君山の門下であった父・友右衛門 覚夢か教えを受け、その後、小野蘭山門に入り、その逸材といわれるようになった。一方、蘭方医・野村立栄に蘭学を習い、西洋の知識も活かしていた。壮年になって藩の薬園監守として勤めたほか、伊勢、近江、美濃、加賀、飛騨、紀伊などに採薬し、名古屋御園町の家園には草木2千余種を栽培していた。シーボルトの『江戸参府紀行』には水谷豊文がリンネの『植物種篇』の蘭訳本を使って属名を調べ、図に附していたが、102の植物のうち、誤りは4つしかなかった、と驚いたことが書いてある。著書には、『物品識名』2巻、未完の大著『本草綱目記聞』、『禽譜』『魚譜』『虫譜』などがある。伊藤圭介の父・玄道、兄・大河内存真もその弟子。

 

 

 

  13.飯沼慾斎(1782-1865)     
     著書・編著:   25.草木図説(1856安政3)  
 

 飯沼慾斎生誕200年記念として出された『飯沼慾斎』の中で、木村洋二郎氏は「徳川時代の代表的なナチュラリストとして、初期に貝原益軒、中期に小野蘭山、後期に飯沼慾斎の名をあげたい。」と綴られている。伊勢の亀山城下に生まれた慾斎は、大垣に移り飯沼家の養子となり、龍夫長順と名乗っていた。14歳頃、大垣を訪問した小野蘭山と出会い、後、22歳頃には蘭山の弟子となったようである。養父長顕は医師で、慾斎も京都に医学修行に出、福井榕亭門に入る。大垣藩では藩医の江馬蘭斎が蘭方に転学し評判を得ていた。慾斎もまたこれに倣い江戸に出て宇田川榛斎門に入りオランダ語を習得し、帰郷。大垣にて開業する。当時の蘭医が意欲を燃やした解剖も経験している。50歳頃より平林荘に隠棲し、以後慾斎を名乗り「西説植学を講じ、草木図説三十巻を著す」(『飯沼慾斎略伝』)という生活をする。伊藤圭介の『泰西本草名䟽』、宇田川榕菴の『菩多尼訶経』『植学啓原』のほか、江馬家の蔵書であった『ドドネウス』『ミュンチング』『ショメール』『ボイス』『ワートル薬性譜』などの西洋書をも参考にしてその研究を進めていったのではないかとみられている。植物に墨をつけてその印影を写し取った『キニホフ』も見ていたと思われ、それらの書からリンネの分類法に注目し、『草木図説』はその体系によって配列した。

 

 

  14.岩﨑灌園(1786-1842)      
     著書・編著:    26.本草図譜(1828文政11)   27.草木育種(1818文化15)
28.本草図譜(1916-1921大正5-10)
 
   三河の出身。名を常正、通称を源三。小野蘭山の最晩年の弟子。父は直参の徒士で、本人もまた徒士見習いとして出仕した。師、蘭山の伴で薬草採取に参加し、長年植物の写生をしていた。20代のはじめより約20年の歳月をかけて準備をした『本草図譜』には潅園の描いた2000種の図がまとめられた。その配列は李時珍の『本草綱目』に従い、5巻から10巻が木版印刷によって出されたが(『本草綱目』の1-4巻は植物ではないので、5巻から)、当時、長崎を通して入ってきた植物図鑑『花譜』(ドイツのヨハン・ヴィルヘルム・ワインマン原著1737-1745)のオランダ訳などから採られている図もあるという。小野蘭山はこの『花譜』を所蔵していたし、弟子の潅園にとっても身近な図版であったのだろう。『本草図譜』92冊は着色されて大名家に配られ、また後の大正年間に木版色刷りとして復刻された。また、『草木育種』(そうもくそだてぐさ)は具体的な植物の世話の仕方を指南する書物で、江戸の園芸家に喜ばれた本であったろうと思われる。今は繁華街となっている御徒町近辺で植物を育て、そのうち小石川に土地を貸与されて薬園を作ったという岩崎潅園ならではの著作である。  

 

  15.宇田川榕菴(1798-1846)      
     著書・編著: 29.植学啓原(1834天保5) 菩多尼訶経 30.舎密開宗せいみかいそう(稿本か。出版は1837天保8 )  
 

 前野良沢の弟子には一関藩の大槻玄沢、大垣藩医の江馬蘭斎、津山藩医の宇田川玄随がおり、その宇田川玄随の養子は伊勢出身の玄眞。そしてその養子となったのは大垣藩医・江沢養樹の長男、榕であった。植物好きであったためか、植物学の分野では、1822年に『菩多尼訶経』を書いている。代々津山藩医を勤めていた宇田川家は1826年より幕府の天文方蕃書和解御用となり、榕菴は父と共にさまざまな西洋科学書の翻訳に取り組んだ。さらに1835年には『植学啓原』を書き、2年後の1837年には、近代薬学に不可欠の化学の教本である『舎密開宗』を著した。(イギリスの化学者ウィリアム・ヘンリー原著 1799年 そのドイツ語訳 → オランダ語訳 → 日本語訳)こうした翻訳事業のなかで、多くの科学用語を造語し、そうした言葉は現代に使われている。度量衡に使用する単位についての解説『西洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』、コーヒーについての紹介『哥非乙説』などの著作もあり、分野を限らず、大変な広い活動の足跡がある。当図書館にも宇田川榕菴が描いたというロードローラーのような車の絵図があり、その旺盛な好奇心と西洋の学問を貪欲に我が物としていく力を感じさせる。『植学啓原』は本来図を付されているが、当館のものにその冊子はなく、文章部分のみである。