研医会通信  245 号 

 2025.10.15

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研医会図書館は近現代の眼科医書と医学関連の古い書物を所蔵する図書館です。
この研医会通信では、当館所蔵の資料をご紹介いたします。

今回は 『帝室博物館略史』です。

 

            

       図1『帝室博物館略史』 帝室博物館

 

 

 

『帝室博物館略史』(昭和13年11月6日 帝室博物館)

 

この夏から秋には、白山や立山の山麓の町に行ったのですが、そうした所にも博物館があり、白山の方では、恐竜や地学関連の展示、立山の方では砂防の歴史をみる展示を見学いたしました。どちらの展示にも、明治時代、わが国が西洋の科学者の教えを乞い、その科学や技術を取り入れて、現在に至るまでの学問や技術を発展させてきた、という説明がありました。

 

今回ご紹介するのは『帝室博物館略史』という昭和13年に出された本です。まだ日本に「博物館」がなかった明治時代、欧米の手法を取り入れて、自国の美術、技術、学問、歴史を形として引き継いでいく容れものとして「博物館」が生まれました。

 

年表の最初は「明治3年9月、大学南校(今の東大)ニ物産局ヲ設ケ、官員ヲ府外ノ地二派シテ物産ヲ捜査セシム」というところから始まります。明治4年には南校で生徒たちに物品を観覧させ、また九段の招魂社境内で物産会を開きます。4年7月に文部省が置かれ、湯島の聖堂大成殿を博物館として博覧会を開催。オーストリアでの万国博覧会に出展することを決めていきます。地方に命じて古典籍や古器物を保存させたり、その一覧を提出させたり、小石川薬園を合併したり分離したり、本当に大忙しです。明治5年、山下門内の旧佐土原藩邸、中津藩邸に博覧会の事務局が移ります。これらは「山下門」(図4)という呼び名でこの後も登場し、上野の建物が完成するまでの間、展覧会を開催したり、保存したりするための施設であったようです。明治6年には町田久成(図2)が上野の 寛永寺跡を博物館書籍館の建設予定地とすることを建議。明治7年には浅草の米倉に書籍を集め「浅草文庫」と名付けます。また、明治8年には東大寺正倉院他、各寺院の宝物が内務省の所管となります。明治10年には第一回勧業博覧会が開催され、次の年には上野の博物館の起工。博物館の分類表をつくり、規則をつくり、14年にはついに博物館の建物ができあがりました。15年の開館式には動物園も同時に開園しています。明治28年には奈良博物館、30年には京都博物館が置かれ、明治末の41年には表慶館も開館します。大正14年には、それまで「天産課」が扱っていたものを文部省所管東京博物館(現国立科学博物館)へと移します。つまり、最初期の博物館は生物や鉱物などの天然の物も多く所蔵していたのです。

 

巻頭にある博物局長町田久成の写真をみると大変若く、こうした若い人が日本という国の基礎を固めるために奔走していたのかと驚きます。現代の若者にもそのように活躍してもらいたい、と考えます。そして、年配者の私たちが彼らの邪魔をしないことも大切かと思われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

      図2『帝室博物館 略史』 町田久成の肖像と石碑

 

   図3 同本 目次

 

   図4 同本 「山下門」の写真 武家屋敷跡の博物館 

 

 

   図5 同本 明治26、7年頃の陳列室の配分