2025.11.14
図1『藝用解剖圖集』 著者名は鶴巻
ふしぎなことに、この本の表紙には、「鶴巻昭彦著」とあり、中扉には「鶴丸昭彦編著」、奥付は「著者 鶴丸昭彦」となっています。発行は昭和18年。昭和16年12月の開戦から2年が経っている戦争中の発行です。うがった見方かもしれませんが、西洋美術を模範とする美術の本を出すには、それなりの勇気が必要だった時期かもしれないと思います。それがたとえ、同盟を結んでいたイタリア生まれの芸術家たちの作品であろうと、横文字であれば敵視されかねない世の中だったのではないでしょうか? 目立つ表紙には本当の著者名でなく、誤植を装った一字違いの名前を記した可能性もあると思います。著者の鶴丸昭彦は、大正時代から活躍していたプロレタリア美術の画家で、社会運動にも参加していた人物です。
巻頭の緒言には、「此西欧古典美術家の人体に対する興味と関心は、西欧諸国が東亜の犠牲に於て肥え、所謂近代国家の統一を促進し、侵略的民族精神を昂揚せしめた…」とか、「我国の油絵の歴史も、不幸西欧美術精神の侵入を受け、其影響を被る事が深刻であった為…」「此精神は日本精神の精華であって」など、不穏な言葉や過度に愛国精神を謳うような文章が続きます。しかし、西欧の解剖学書と芸術作品の図版を集めて作ったこの本の本来の目的とは相容れない、ちぐはぐな緒言です。文章自体も、手を入れられて、不完全な推敲のまま出された印象があります。
本の内容は、290点の解剖図や写真があり、それぞれを見比べながら骨格や筋肉の作り・名前を確認できる、というものです。人体の表現をする芸術家たちに向けられた参考書は、限定1000部で出版されました。戦火に燃えた日本で、何冊の本が現在まで残っているのだろう、と思わずにいられません。
出版元の芸術学院からは、『農村絵画の実習教本』『肖像画の技法』『漫画の技法』『新しいスケッチの技法』『美術用語辞典』など、美術関連の書物が出されていたようです。制限の多い世の中にあっても、美しいもの、楽しいものを追いかける人々の心までは縛りつけることはできなかったのでしょう。
図2『藝用解剖圖集』扉 著者名は鶴丸
図3 同本 P.32 ・ 33
図4 同本 P.39